2010年7月15日木曜日

第24回 富士吉田市商工会議所観光サービス部会

  先進地視察研修旅行

長野県小布施町 平成22年6月23日~24日
 =23日=


  道の駅”オアシスおぶせ”定刻の8時、一行14名を乗せたバスは会議所を出発、向かうは長野県小布施町だ。中央道御坂ICから中央道に乗り北上、長野自動車道を通り上信越自動車道小布施スマートインターで降りるルート。小淵沢パーキングエリアで一度休憩をとり、11時45分に小布施町に着いた。スマートインターには駐車が併設され、道の駅”オアシスおぶせ”にて昼食をとった。名物の栗おこわが美味しかった。この道の駅は噴水広場・遊具広場・芝生広場野外ステージ・全天候テニスコート・陸上専用で表面は全天候型のフルウレタンコース・マレットゴルフ場・ドッグラン広場、そしてミュージアムまで併設しており、緑溢れるこの場所は町民の憩いの場所になっている事が伺い知れた。 我が富士吉田市にも”道の駅”があり、○(富士山アリーナ・富士山ビール・レーダードーム館)
◎(郷土博物館・鐘山の滝・散策公園)まであるが、◎に付いては動線が悪く生かしきれていないのが現状だ。 


 小布施町役場

役場に早く到着してしまい、市村町長を20分程待った。役場は図書館も併設されていた。スペースがあれば、こうした考え方は有効だと思う。子供から老人まで遊びに来れる役所、お固いイメージを払拭するには必要だろう。市村町長現る。挨拶もソコソコに、町長は1時間半に渡り、小布施町に対する思いを静かではあるが熱い語りで話してくれた。高山鴻山を初めとする先祖に先見の明があった事。街の周囲に農地があり明治時代後半丹波笹山から栗を導入し、栗がこの地に合った事。葛飾北斎を招聘し、沢山の自書が残っていた事、小布施は5x4キロの小さい町だった事。30年以上前から街並み修景事業に取り組み成功した事。また、近年ではヨーロッパへガーデニング研修旅行を10年に渡り実施し、凡そ200人以上参加して、今では110軒の一般家庭でオープンガーデンを創り、観光客と交流をしている。一番学んだ事は、行政と住民が協働、すなわちパートナーシップを結び、共にまちづくりに取り組んで来た事だ。行政の姿勢が頼もしく感じるし、小布施町の民度の高さを
感じた。アッチ派・コッチ派で60年、たえず片肺行政で来た富士吉田市に未来はあるだろうか・・・。 


 北斎館                  落ち着いた雰囲気を醸す街並み

次に場所を北斎館に移し、館長でもある前町長唐沢氏のお話を聞いた。平成元年に町長に就任以来卓越したリーダーシップで職員・町民をリードし、観光客ゼロの街から、年間120万人が訪れる街にした方だ。官と民がアイデアを出し合い一体となり整備を進めた修景事業、北斎館を中心に12の文化施設を含めた町全体を美術館にした構想を具現化し「外はみんなのもの、内は自分のもの」をテーマに、街づくりを進めて来た。 住民の自由な発想を支援しサポートする事が行政の役割と考え「汗出せ、すぐ出せ、知恵を出せ」をキーワードに、成果が上がったら住民たちの成果だと感じる仕掛けを作り出した事が大変素晴らしかった。 町づくりは地域の活力であり、住民の参加と行動の連続、ふるさとは自分たちで作り守って行き、住民の絆でつくり上げられて行く。ふるさとを大切にする心を養う「小布施教育」をより尊重して来た事が、今日の小布施の繁栄に繋がっている。  3年振りの小布施。電線も無く整然とした街並み、路面から看板、店のしつらい隅々まで気配りがいきとどいた街、1軒1軒店を街を、ゆっくりと訪ねたかったが時間が押し街を散策する時間が無かった事が悔やまれた。また機会を見つけ出掛ける事にしよう。

 やっぱり、良い街には良きリーダーがいた。


 渋温泉                                        外湯巡り一番初湯 古久家   

  予定より30分遅れた18時、渋温泉駐車場に到着した。横湯川の脇で山裾に長く伸びた湯治場の雰囲気を醸し、狭い道路を挟んだ建物から湯気が立ち昇っていた。中には木造3階建て宮造りの金具屋があり「千と千尋の神隠し」のモデルになったと看板が立っていた。我々は、その前にある古久屋へ泊まった。勿論!お湯は源泉掛け流しの本物だ、迷路のような通路1階には、湧き出した源泉を見る事が出来る窓がはめ込まれ、ライトUPされた足下を、滾々とお湯が岩肌を流れていた。鍵の付いた板プレートを持って外湯めぐりも楽しめたり、駐車場の脇にある公園では蛍の乱舞も見られたという、折角、近くまで散歩しに行ったのに手前で帰って来たのが悔やまれた。

   =24日=
   

  松代町象山 大本営跡  

  9時、渋温泉を後にし松代町の大本営地下壕へ向かった。終戦間近に、皇居を移す事を本気に考えた大本営は岩盤が固いのを選考基準として、この地を選び、朝鮮人7000~8000人を拉致しトンネル工事に当らせ、ほぼ完成させたものだ。拉致は北朝鮮だけのものではなく、戦時中日本もやっていたのだ。 第二次世界大戦末期、ソ連軍に拿捕されシベリヤの強制収容所へ送られた日本人は60万人ともいわれている。1945年から1956年にかけて、抑留者47万人の日本への帰国事業が行われたが1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連内での日本人捕虜の死亡者は6万といわれている。父親も抑留者で1949年に帰国した。> ドイツ人拿捕者も終戦時、約三百五十万人、うち百十万人がソ連内で死亡した。辞書を調べると拉致は無理やりに連れて行く事とあり、抑留は一定の場所にとどめて置く事とある拿捕し抑留も、拉致し抑留も、人間を捕まえ自由を奪い、強制労働する事に変わりない。戦時の
狂気と言ってしまえばそれまでだが、有史以来世界のどこかで今も続く戦争、人間とは何とおぞましい生き物であろうか。
               

 山寺常山邸

  駐車場へバスを止め、大本営跡まで新しく舗装された道路を歩いたが、路面は平らで色付けられた歩道が歩き易かった。道路脇には歴史的建造物として復元された山寺常山邸があり松代の武家屋敷庭園の特徴を基調とし、散策や学習ができる庭園として整備されていた。 


 旧樋口家住宅

 その後、真田家の宝物館へ立ち寄ったが、タイミングが悪く燻蒸作業中でお休み、入館出来なかった。裏の庭園を見たり、文武学校を見学した。松代は真田氏と佐久間象山が有名だ。真田氏は智略を尽くし戦国時代を駆け、象山は幕末を精一杯生きた松代の英雄だ。
そんな思いを残す文武学校が今も使われており、丁度、居合いの稽古を終え帰路につく2人の老士と行き会ったが、眼光鋭い一閃が印象に残った。


 松代藩 文武学校


 信州そば蔵長野店



 曹洞宗 安楽寺

信州の鎌倉と呼ばれる安楽寺・北向観音へ向かった。梅雨の晴れ間を狙うような暑い日差しの中、額に汗して坂道を登った。まずは安楽寺へ杉木立の中に入ると、ヒンヤリとした風が心地良く後退したおでこを流れて行く。緑に包まれ奥へ行くに従い静寂な時が流れる、良い感じのお寺様だ。 国宝八角三重塔の様式は珍しく、日本の古来からある塔とは見た目も違っておりインドのスツーパを起源としているのだそうだ。屋根も瓦葺ではなく桧の皮を使っているものと思われ苔生した感じが、周囲の景観とマッチして落ち着いた雰囲気を醸していた。

  
 北向観音

  次に、北向観音へ向かった。本尊は千手観音菩薩。御堂が北に向いていることから通称北向観音と呼ばれる。御本堂が北に向いてるのは、観音様の「北斗星が世界の、よりどころとなるよう我も又一切民衆のよりどころとなって済度をなさん」という、お告げによるものだそうです。善光寺と向き合っているので、「裏善光寺」とも呼ばれ、南向の長野の善光寺に詣り「未来往生来世の利益」を 願い、北向観音に詣り「現世の利益」を祈願します。「片方だけでは片詣り」になるとされています。(HPから) お寺の右手には巨大な桂の木があり、川口松太郎の名作”愛染カツラ”を生み出すヒントになったとも云われている。その右手の崖には温泉薬師信仰から薬師如来を祀る瑠璃殿があり崖に寄り添い下から上に伸びた支柱柱が印象的で、何ゆえ伽藍を高い場所に置くのか疑問を残した。 鄙びた温泉街だが湯質が違い、湯量豊富な源泉を持つ渋温泉や、信州の鎌倉と呼ばれる安楽寺周辺、いち早くまちづくりのウエーブを起こし大成功した小布施町、長野県は山また山の広大な県で中山間地域も多いが、その懐も深く、奥行きの深かさ、また豊かさを感じずにはいられなかった。 東京から90分、富士山・富士五湖もありロケーションもアクセスも恵まれた富士吉田市だが街は泣いている。街は人が集まるから街になる、虫歯のようにシャッターを下ろし、点々と欠けた商店街。人が集まる仕掛けを創らなければ・・・仕事を創り喜んで働ける場所がなければ・・・懐が豊かでないと笑顔が生まれない。その為には何をすれば良いか・・・悩みは尽きない。

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