2015年12月5日土曜日

日台友好歴史探訪セミナー

日台友好歴史探訪セミナー 平成27年11月25~28日 
 
 今回の旅を知ったのはインターネットで知ったリアルインサイトのメーリングリストページで
送られて来たメールを見て知ったのだった。以前、2回ゴルフ旅行で台湾に来たが、その時
チャンスがあれば1日私用で台湾南部にある八田興一が作った鳥山頭ダムを訪ねたかったが
残念な事に、その機会は無く、思いを残したまま今に至り、そして今回、メールでこの旅を知り
思わず申し込んだ訳である。

 台湾発展に尽力した日本人

#1.児玉 源太郎

 1898年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展
も立ち遅れていた。ここで第4代台湾総督として任命されたのが、児玉源太郎です。
児玉は、第4代台湾総督に就任すると、後に紹介する弱冠42歳の後藤新平を台湾総督府の民政長官に抜擢
しました。 そして台湾の行政機構の大改革を実施。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に
統合簡素化すると同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下、1,080人の官吏を罷免しま
した。 約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組みます。

 経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの
生産を1902年の50万トンから1905年の130万トンへと約2.5倍に激増。台湾総督としての8
年間に、西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、
下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行しました。
 当時、日本の国家予算が約2億2,000万円という中で、約6,000万円という膨大な事業資金を台湾
統治に投入しました。

#2.後藤 新平

 後藤新平は、民政長官として台湾で働いた8年7ヶ月で、衛生環境の改善に並々ならぬ努力を払い、歴史上
類を見ないほどの発展を台湾にもたらしました。伝染病などを減らすため、「台湾家屋建築規則」及び「台湾
汚物掃除規則」を公布し、都市の衛生環境の改善をし、その2年後には、公医費、伝染病予防費、消毒費、
井戸地下排水、汚水清掃費、衛生品検査費、水道水費などの各地の衛生経費は、地方税で賄われるように
制定しました。そして、1905年には「大清潔法施行規則」を交付し、3月と9月の年2回全台湾で定期的に
大掃除をすることとし、同時につねに各家庭が清潔に保たれているかの抜き打ち検査を実施。

 こうした生活環境や医療環境の改善などにより、1905年の年間死亡者数が千人当たり341人だったもの
が、1912年には、20人以下へと激減。さらに当時の台湾ではアヘン中毒者が蔓延していましたが、彼の
「阿片漸禁策」により、1900年には16万9千人いたアヘン常習者は1917年には6万2千人に、
1928年には2万6千人にまで減少し、その4年後の1932年には500人以下にまで減り、1945年の
アヘン根絶を行うきっかけを作りました。その結果、台湾人の平均寿命は30歳前後から、終戦時には60歳
前後へと驚異的な伸びを見せ、「一世紀にも等しい」と言われるほどの発展を台湾に遂げさせる活躍をしました。

 李登輝氏は、後藤新平の貢献について「今日の台湾は、後藤新平が築いた基礎の上にある」と述べ、「後藤
新平は、私にとって偉大な精神的導きの師である」と語っています。


#3.新渡戸 稲造

 児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造です。
新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけます。その後、パリで開かれた万国博覧会へ
出かけたのを機に、欧米諸国及びその他の植民地の製糖設備を調査して歩き、帰途はエジプトとジャワへ寄り、
製糖業経営の実地視察、殖産局長心得を学んで帰ると、製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、
栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」を児玉と後藤に提出。

 彼の意見書を基に制定された「糖業奨励規則」によってサトウキビ農家には補助金を支給し、品種改良や
灌漑施設の整備など、耕作意欲を刺激する政策が進められました。同時に、機械化された大規模な製糖工場の
建設を促し、従来の手作業を主とした製糖作業の機械化を推進し、農業と工業の両面から発展させました。

 この結果、台湾の製糖業は、1902年の生産高50万トンからわずか3年後の1905年には約2.5倍
130万トンに激増。その前後を含めると、1900年に3万トンだった産糖は、40年後の1940年には
160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となったのです。

 李登輝氏は、高校時代に新渡戸稲造の著作に出会い、「新渡戸稲造という日本人の偉大さに心底感服した
ことを覚えています」と述べています。そして、新渡戸の後を追いかけて農業経済学への道を進んだ氏は、さらに
「武士道」に感銘を受け、京都大学へ進学。その後の波乱万丈の道のりの中でも、新渡戸の言葉や精神が自らを
鼓舞してきたと話し、「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」と公言しています。

#4.八田 與一

 台湾で最も愛され、神様のように崇められ、台湾の歴代総統も彼の墓前参拝に訪れるほど恩人として慕われて
いる人物が、八田與一です。 八田の業績は、1930年、当時としては東洋一の先進的なダムと膨大な水路を
整備し、不毛の土地を台湾最大の米作地帯に変えたことにあります。不毛と呼ばれた嘉南平野は香川県ほどの
大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地でした。 また亜熱帯性気候で一年に2、3回も
の収穫を期待できる地域でしたが、河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期には手を
つけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干上がるありさまでした。

 八田は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することで、この地を台湾の穀倉地帯にできる
と考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げました。予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の
年間予算の三分の一以上に及ぶ規模でした。計画の第一にあった烏山頭ダムは、満水時の貯水量1億5千万
トン。黒部ダムの75%に相当し、土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロ
リック・フィル工法をわが国で初めて採用。ダム湖に水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロ
メートルのトンネルを掘り、毎秒50トンの水を流し込む。それは、当時最大のトンネルだった東海道線の
熱海の丹那トンネルよりも15センチ大きい規模でした。

 給排水路の全長は1万6千㎞、万里の長城の6倍、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも
及び、さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作るというその壮大な計画の実現によって
水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は
4倍となり、その業績は台湾の中学校の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されています。

#5.明石 元二郎

 第7代台湾総督として赴任した明石元次郎の在任は1年4ヶ月と極めて短い期間でしたが、短期間で現在にも
つながる大きな功績を残しました。 最初に手掛けたのは、水力発電事業の推進と教育制度の確立でした。

 水力発電事業に関しては、彼が赴任する前年に水力発電の企画案が日本政府に持ち込まれていたものの、当時
の台湾総督府年間予算を超えるあまりに膨大な資金投資にその要請を一蹴されていたものを、見事な政治手腕で
日本政府を説得しました。そして完成した大観水力発電所の発電量は1万5千キロワットで、当時の日本国内にも
ない大がかりな発電所群となり、今でも台湾の水力発電の半分をここで供給しています。

 教育制度の確立に関しては、日本人と台湾人の区別を少なく教育を受けられるようにするという、当時革命的
だった「台湾教育令」を制度化しました。これが後の台湾の発展に大きな力となり、台北師範学校、台南師範
学校をはじめ多くの学校を開設し、李登輝氏をはじめ、数多くの台湾リーダーが誕生するきっかけとなりました。

 さらに注目に値するのは、1945年時点で50年間日本領であった台湾の就学率が92パーセントに達して
いたことです。400年間もオランダの植民地であったインドネシアの就学率がわずか3パーセントだった
ことを考えると、明石の功績には目を見張るものがあります。そのほかにも司法制度の改革、嘉南銀行の設立、
台北高等商業学校の設立、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めました。
 没後、彼の墓を建てるために彼を尊敬してやまない台湾人からたちまち多額の寄付金が寄せられ、「軍人中
皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど壮大な200坪もある墓が作られました
(現在は別の場所に移されています)。(リアルインサイトHPから)


 準備万端荷作りも完了、この旅の為に新しく買い換えたパソコンの操作もバッチリ覚え前日
早寝?し、翌25日、家を5時に出て羽田へ6時50分に到着した。

  
    羽田空港国際線                         台湾松山空港

 8時40分発 台湾松山空港行 12時00着

一番乗りの我が羽田チームは台北101、元世界一の高層ビルで2時間時間潰しの観光をした。
前回のゴルフ旅行で来た事があったので、感激はなかった。


101地下フードコート

 15時30分 ホテルイン Taipei Fullerton Hotel East
 16時15分 講演会場IN

李 登輝(り とうき)氏
 1923年 台湾生まれ。元台湾総統。農業経済学者。米国コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉
博士。京都帝国大学農学部を終戦のため中退。台湾大学に編入・卒業。台湾大学講師、米国アイオワ州立大学
大学院を経て、中国農村復興聯合委員会顧問、台湾大学教授。71年国民党入党、72年行政院政務委員として
入閣。台北市長、台湾省主席などを歴任、84年蒋経国総統(当時)から副総統に指名される。88年の蒋経国
の死去にともない総統に昇格。96年台湾初の総統直接選挙に当選し就任。

 2000年任期満了に伴い総統を退任。2007年第一回後藤新平賞受賞。『台湾の主張』(PHP研究所 第8回
山本七平賞受賞)をはじめ、近著には『「武士道」解題-ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫
2006年)・『李登輝実録-台湾民主化への蒋経国との対話』(産経新聞出版 2008年)・『最高指導者の条件』
(PHP研究所 2008年)・『李登輝より日本へ贈る言葉』(ウェッジ 2014年)・『新・台湾の主張』(PHP研究
所 2015年)ほか著書多数。

  台湾の歴史

1624年にオランダに支配されて以来、数百年にわたって、明鄭、清、日本、そして中国国民党という
外来政権によって支配されていました。台湾の歴史とは、他国によって支配され続けた歴史だったのです。
 李登輝氏は、こうした外来政権による支配を終焉させ、台湾を民主化し、数百年に及ぶ外国の支配から
台湾を台湾人の手に取り戻しました。すなわち、台湾人の数百年来の悲願を達成させたことが、李登輝氏が
成し遂げた偉業の偉業たる所以ですが、その達成までには、想像を絶する困難がありました。
 その最大の困難とは、「中国の法統」を断ち切ることにありました。

 李登輝氏の1988年の総統就任時、台湾を統治していたのは、蒋介石に始まった国民党政権です。彼らの
統治時代、43年間もの間、台湾では人権や民主主義が蹂躙され続けていました。憲法は凍結され、世界最長
とされる38年間もの戒厳体制が敷かれ、国防・治安などの権限を総統に極度に集中させ、独裁政治が行われ、
住民による民主化要求は、国家反逆罪として弾圧されました。令状なしでの逮捕が認められたため、深刻な
人権侵害をもたらしただけでなく、国会の選挙も凍結され、中国大陸で選出された議員が半世紀近くも居座り
続け、彼らのことを「万年議員」、国民大会や立法院、監察院は「万年国会」と呼ばれていたのです。

なぜそんなことになったのか。

 それは、一言で言えば、国民党政権・中華民国政府が「中国の正統政府」を自任し、中国共産党が統治する
中国大陸への反攻を目指していたため、台湾を国民党の「軍事基地」とみなしていたからです。

 それを正当化するために、彼らは台湾が中華民国領土の一部に過ぎず、中華民国の国会を台湾住民のみによる
投票で改選することはできないと主張し、選挙を凍結。人権や民主主義を蹂躙する一方で、形式的には中華民国
憲法が施行され続けていることを喧伝します(実質的には、後に触れる動員戡乱時期臨時条款により、憲法の
効力も凍結)。これによって生まれた「万年国会」と中華民国憲法による“正統性”と「法統」と呼び、民主化
要求を「法統」を犯す「法理独立」だと決め付け、弾圧したのです。

 そして、李登輝氏の総統就任時にも、民主改革を求める凄まじい民意の声にも関わらず、国民党の保守勢力は
「法統」で約束された地位を手放そうとせず、民主改革を求める声に耳を傾けようとはしませんでした。
その問題を解決するため、李登輝氏は、「その病巣はただ一つ」と見抜いた憲法の改正に着手します。その最大
の目玉は、「動員攪乱時期臨時条款」を廃止することにありました。
これは、台湾と中国は内戦状態(国共内戦)にあるとして、憲法を停止して国家総動員体制を敷くことを可能に
したもので、独裁政治を可能にし、人権が蹂躙されたのも、選挙が凍結され、大陸出身の「万年議員」「万年
国会」が権力の上に居座り続けたのも、これが癌だったのです。

 これを廃止するため、自身が第8代総統になるための選挙で支持を依頼した600人の議員全員を説得し、
引退させ、1991年、「万年議員」は全員退職し、「万年国会」問題は解決しました。さらに94年7月、
台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙を実施。国民党内では依然として党こそ国で
あるという「党国」体制がまかり通っていて、個人の下に権力やあらゆる利益を集中させたがる状況にあった
悪しき伝統を、100人の党員が反対する中で打ち絶ちました。

 さらに総統直接選挙の実現に向けて行動。

 国民党が提出した間接選挙ではなく、直接選挙を主張し、国民大会において、第9期総統より直接選挙を
実施することを賛成多数で決定させます。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を
防止する規定を定め、1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、台湾史上初の
民選総統として第9期総統に就任したのです。(リアルインサイトHPから)

 17時 李登輝元総統の講演が始まるが92歳とは思えない、その声の張りと迫力に圧倒された。
多少耳は遠いがスラスラと出る年号、凄い記憶力だ。「リーダーとは如何にあるべきか・・・」と
題してお話し下さったが総統時代の15年は孤独だった、山の1畳ほどの広さしかない周りを絶壁に
囲まれる、てっ辺に立たされている感じに似ており、すべてを自分で判断を下さなければならないのが
辛く苦しい。自分を育み勉強出来たのは戦前の日本の教育のお陰で、今の日本の教育は嘆かわしい
現実がある。戦後70年、過去の過ちは認めて反省するが自分の国は自分で守るのは独立国家としては
当たり前の事、進駐軍によって作られた憲法9条も無くすべきだと。また、今は、金を金で買っている
時代でおかしい。この度の講演は、次世代の後継者を育てる我々に送ってくれた李登輝氏の遺言かも
しれないと思った。









     = 26日 =

 9時、台湾新幹線で台南を目指した。10時40分台南駅に到着、バスで烏山頭ダム(うさんとうだむ)
へ向かった。

  
    台北駅                                        台南駅

 烏山頭ダムは大正時代に台湾を統治していた日本が国策で水の無い台南の大地に灌漑・水路を
作って田畑に必要な水を引き、土地を潤す事を目的にダムを作る事を八田與一に命じた。途中、関東大震災が
あり工事が中断したが、今の金額で5400億の巨費を投じ10年を掛けて完成、台南地方は緑に溢れる
肥沃な大地となった。1942年(昭和17年)5月、政府の命令でフィリピンへ向かう途中、八田の乗船する船は
アメリカ軍潜水艦の放つ魚雷を受けて沈没帰らぬ人となった。そらから3年後のダム完成記念日に、夫の後を
追うように妻、外代樹(とよき)がダム放水路に身投げし投身自殺を遂げるという悲しい実話がある。 
 台湾発展の為に尽力した八田興一を台湾の人々は神のようにも讃え、日本人の名前を知っているかと
訊ねれば、殆どの方が八田の名前を一番に挙げる程知られている。現在、台湾の小学校5年生の教科書に
八田興一物語として載り、学ばれている。


  

 烏山頭ダムの下に「八田興一記念公園」があり、宿舎が昔の面影を残して建っている。テニスコートが
あったのには驚いた。宿舎の裏には池があり、その池が台湾の形をしているところに、台湾への想い入れの
深さを感じた。また、道路標示板には「八田路」と書かれており、八田技師がいかに台湾の方々に愛されて
いるか理解出来る。庭内に四女の嘉子を抱いて夫の帰りを待つ夫人・外代樹さんのブロンズ像があり、足元に
手向けられた新しい花束が、いっそう涙を誘い、思わず両手を合わせ冥福を祈った。


 ダム放水路
 
 烏山頭ダムの放水路を見学した。丁度、発電所の建築中で水は放水されていなかったが、想ったより
規模が大きく驚いた。この放水路に外代樹夫人が身を投げたと思うと・・・胸が詰まった。
 加賀屋の徳光支配人の配慮で、特別にダムの下にあるトンネルを見学する事が出来た。コンクリートの
アーチにはトンネルを造った時に使った木材の形がアーチ状に残り手造り感一杯だ。その中を、まるで
2匹の大蛇がうねって横たわるように巨大な2本の鉄管が走り、湖の底へと続いていた。このダムの
お陰で嘉南の16万ヘクタールの大地が潤い、米もサトウキビも耕作出来るようになったのだ。


    八田技師記念館 



  旬工碑         烏山頭ダム  郷里・金沢から贈られた灯篭  八田興一像

 ダムを見下ろすレストランで食事を摂った後、八田技師が造ったダム放水路を見学、普段見る事が
出来ないダム湖の下にあるトンネルも日生加賀屋の徳光氏のお陰様で見学が出来た。ダムを見下ろす
高台の松林に、ひっそりと座りダムを見つめるブロンズ像の眼差しが、リーダーとは如何にあるべきか?と
問い掛けているようだった。

 台湾幹線の中では同席した方々と色んな話をした。ベルギーの山中に別荘を持つチョコレート会社の
会長さん、若いけれど自己啓発の為にセミナーに参加された方、また、50代で一生分を稼ぎ切り余生を
人の為に使いたいと話す方、とにかく皆、凄くモチベーションの高い集団で驚く。バスに乗車した時や
食事で同席した時には名刺交換をするが、その際、持参した御山のDVDをプレゼントした。


     = 27日 =

 8時 セミナー開始
 
 天命を知り使命として人事を尽くす
  20年の台湾経験から学び実践したこと
                        台湾日生加賀屋取締役・徳光重人氏
   同席 西山さん アフリカへ2年ジャイカ
      浅野さん 井戸堀の会社

 台湾に郷土石川県の加賀屋を持って来たいと夢を持った徳光支配人が加賀屋のメインバンクに
見事に門前払いを食らうが、テニスの教え子の親が、その事を知り電話するとOK、加賀屋と
コンタクトに成功。紆余曲折があったが基本コンセプトは日本の加賀屋を、そのまま台湾へ。
これをメインに苦労しながらも現地の若い娘をメイデアを使い募集、文化の継承は映像を上手に
使う事。人間は100%→200も300%にもなる可能性を持っている。出来ない理由を
探すな、どうすれば出来るか考えろ。師との出会いがあった、卓恩台師匠だ。

・川に落ちたらどうしたらいい!?
  動くなじっとしてろ、そうすれば上には水面があり、体に当たる水流で
  どちらに流れているかも分かる。
・自分が死んだら何人葬式に来るか挙げなさい。
  せいぜい30~50人?その人が生きて来た深さと広さだと

 台南に烏山頭ダムを造った八田興一は没後70年経った今でも、命日には200人を超える
人々が慕って集まる。そこから徳光支配人の八田興一顕彰活動が始まる。偉人に学んで教育を
すれば、大志を持った時、道が開かれる。神は自分の心の中にある、信仰心を持つべき、夢は
「日台国交樹立式典開催!」と熱く語った。
 バスの中で冗談を交えながら語った「死んだら台湾海峡に散骨してくれ、台湾を中国から守る」が
強烈に印象に残った。

             徳光重人氏

 台湾総督府

 台湾総督府を見学した。日本で云えば首相官邸と言った所だろうか、大いに違うのは敷地入り口と
玄関に兵士が立ち、自動小銃のトリガーに指を伸ばして置く臨戦態勢でいるのが、正に政治的に難しい
立場の台湾を象徴している気がした。

 鼎泰豐(ディンタイフォン)
 こちらの小籠包は絶品、台湾へ行かれた際は是非にでもお奨め、多少並ぶが、その価値がある店だ。


        元松山タバコ工場
 都会の中のオアシス、そんな感じの場所で、元工場を上手にリノベーションしている。

 第7代台湾総督・明石元二郎氏の鳥居
 公園の中に高さの違う鳥居が2つ、こうして残されているところに、在任は1年4ヶ月と短いが
明石氏が台湾の方に愛されている証しでもある。


 中正記念堂

 国民党の指導者・蒋介石を祭った建物で巨大な像を衛兵が守っており、定期的に交代式が行われる。



 美しい日本語を守る会(台湾の方々)

 夕飯は台湾の「美しい日本語を守る会」の皆さんとの会食だった。12人の皆さんは全員が80歳を
超える年齢で、会長さんは日本語で上手にスピーチしてくれた。その後、一人づつ各テーブルの席に着き
我がテーブルには長さんが座った。食事が終わり、帰りがけに「明日、帰っちゃうの寂しいネ!台北を
案内するのに・・・」と言って下さったのが嬉しかった。どうぞ、健康に留意され長生きして下さい。

    = 28日 =  7時30分

 児玉総督・後藤民政長官ゆかりの現・国立博物館を見学する予定だったが工事中との事で、急遽
芝山巌学堂(しざんがんがくどう)六氏先生の墓を訪ねる事になった。抗日事件により殺害された
日本人教師6人の墓がある所で、この地は台湾教育の聖地になっていると聞いた。

 下記、ウキペデイアより
1895年(明治28年)5月17日、下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から
日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した
樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、
日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて
同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。
 最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。
次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を
行っていた。その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の
教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。



 その伊沢の帰国中に事件は起こる。
1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると
周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を
懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

 1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を
連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び
芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちは
ゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、
日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を
襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、更に芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた
日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重要視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の
強化が行われた。芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に再開された。



   教育勅語

 彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の
学齢児童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、
後に台湾が経済発展をする基礎となった。
 1930年(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、
1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。境内には六氏先生を合葬する
墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月
1日建立)が建てられた。
 毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されている。

 偶然にも良い出会いがあった。孫に連れられて散歩に来ていたトウさん(84歳)が我々を見て語り
出したのだ。日本語で教育勅語の下りを流暢に話し、戦争中の事も話して下さった。トウさんが、何度も
語った「台湾人は可哀想だヨ!・・・」が耳から離れない。

 芝山公園・恵濟宮
        

 福建漳州の人々が士林に移住した際、彼らの守護神である「開漳聖王」も一緒に連れて来られました。
言い伝えによると、約二百年前に漳州府の黄澄清氏が開漳聖王のお線香と灯りを持って台湾に到着し、
芝山に供えたところ、神が現れたということです。そこで人々はお金を出し合い、1752年に恵濟宮を
建立しました。それからしばらくして観音仏も祀るようになったことから、「芝山巌寺」と呼ばれて
います。ここには「文昌筆」があります。これに触れるとご加護が得られるということで、子供を
連れた親が試験の成功を願って訪れる。
 こちらの寺奥を借りて小学校を開校、文字通りの寺子屋で日本語教育が始まった。

  

 旅の終わりは免税店、台湾ドルを羽田空港で7万円分用意したが、土産を買い、すっかり使い
切ってしまった。



 帰りの搭乗時間は偏西風に乗り2時間半で羽田に着いた。行きに乗ろうとしてロストした高速・中央
環状線も帰路では問題なく乗れた。多少渋滞があったが、この道路は良い。羽田へ向かう時間が10分
以上短縮出来、助かる。21時30分に家に到着、無事に帰れば旅は大成功だが、今回の旅は食事の度
テーブルに同席した方と名刺交換をした、その数50枚以上だ。今回の旅の参加者は110名程と
聞いたので半分しかだが・・・折角頂いたご縁、時間を掛けてボツボツ整理をして行こうと思う。
 
 中身の濃い旅行だった。台湾を日本が統治した50年、他の国が行った植民地政策とは大きく違い
住民を教育し、インフラを整備し、衛生環境を整え、農業の生産性を上げ、近代化出来たのは、命を
掛けて台湾を創って来た日本の先人達だ。東日本大震災の際、なぜ小さな台湾が世界で一番最高額となる
義援金2億5200万ドルの支援をしてくれたのは、面積は日本の約10分の1、人口は約5分の1、
GDPは約9分の1の小国、台湾だ。2億ドル?数字のレトリックである、1ドル120円で計算すると
240億円だ。これだけの金額を義捐金として下さった。因みに、ある隣国は32億円だそうだ。
 
 国家間で義理人情があるかどうかは分からないが、50年間の統治時代に先人が築いてくれた偉業に
感謝を示し、それを今も忘れずにいてくれる台湾の方々に感謝したい。親日の国台湾が益々好きになり
愛しくも思えて来て、なぜ!東北震災の時に小国台湾が世界一の義捐金を下さったのかを今回の旅行で
理解出来た気がした。

 また、我が国の根幹を成す教育の在り方を観る時、現在、行われている教育、学校の式典に国旗掲揚も
しない、国家も歌わない教育は間違っているとしか思えない。ぼつぼつ左に切った舵を中央に戻す、そんな
時期が来ているのではないかと爺心に思うのであった。