2011年12月9日金曜日

木の花会・東北祈り旅

木の花会・東北祈り旅
        平成23年11月20・21・22日  2泊3日 

 3月11日、あの震災があった。自分の目で現場を見たいと思い、皆に東北行きを
提案したところ賛成して貰い、東北へ行く事となった。テレビや写真で見てはいるが
現場に立ち、潮風の匂いをかぎながら、戦後生まれの自分らが遭遇した最大の災難を
どう考え、どのように行動に移して行くかを考える旅でもあった。 

 ------ 20日 ------

 5時30分、5組の夫婦を乗せたハイエース・パインツリー号は一路東京駅を目指した。
初めての東京駅、日本ビルの駐車場、車にナビの付けていない事を後悔しつつ、数日前から
グーグルアースを使いシュミレーションをしてルートの勉強をした。
 ネットはありがたい。駐車場の検索をしていたら、こちらのPが見つかり、新幹線を
使えば1日2000円で車を置けた。

 問題無く東京駅近くのPに到着し、一行はゾロゾロと駅に向かった。
7時前で構内のショップも所々しか空いていない。新幹線の切符売り場を探し、開いて
いる売り場の前でハタ!と気が付いた。ETCカードを車に付けたままだ。時間は
まだ15分前、充分間に合うと思い、皆に訳を話しPに向かって走った。

 片道3車線の横断歩道の信号待ちを足踏みをしながら待つ、地下Pへの階段を2階分
下り、車の所までP内を走り、カードを抜き取り戻る。フットワークは軽い積りだが
体重90キロが災いし、階段を昇り切る頃にはフクラハギに乳酸が溜まり、歩みが
極端に遅くなり、一気に溜まっていた汗が噴出す。周囲の人々はコートを着てマフラー
をしている中、ジャケットを左手に右手はハンカチを持ち、額の汗を拭き拭きYシャツ
姿で駆ける(積り)。

 22番線下で家内と鶴田さんが待っている「こっちこっち!」エスカレーターに
飛び乗った。すると”ツルルルルル~♪”音は昇りきる手前5メートルの所で止まり
係りの列車のドアを閉める笛の音がプラットホームに消えた。7時16分「ファオ~ン♪」
残された4人は唖然として、仲間6人乗せた新幹線の後姿を見送るだけだった。

 落ち着いた所で、乗り遅れた旨を電話連絡した。
前回の木ノ花会の旅行は、平成19年2月 西表島だったが、その時は予約の手違いから
男女別れて違う飛行機に乗り、1時間遅れで西表島に到着した過去を持っている、どうやら
別れ別れで旅をスタートするのが慣例となりそうで、3回目が怖い。

 固定観念に固まり、列車に乗る機会の無い田舎者は困る。そのまま、次の列車も同じ
プラットホームに入ってくるものと思い込み、ボー!っと、22番線で待っていた。
 列車の入って来る10分前になり、ハタツ!と、思い出した。予定を作る際、机上で
パート2の候補に上がっていたのは確か21番線・7時56発だ。ここは22番線!
隣のホームの時刻表を見ると「7時56分発 はやて」があるではないか・・・。慌てて
皆で隣のホームに移動し、事無きを得た、やれやれである。


  一関

 40分後、一関駅にてチョットだけ感動の、笑顔の再会を果たした。
二階のプラットホームから下のホームを見ると蒸気機関車が止まっている。どうやら
イベント列車で特別に設えたものらしいが、やはり生で見ると迫力がある、得した
気分で旅のスタート、怪我の功名だ。40分遅れたからC61に会えたのだ。
 駅前で予約して置いたレンタカーに乗り込み、東北の道を走りだした。


 気 仙 沼        陸 前 高 田

 国道284号線を気仙沼へ向かって走る。
一関から気仙沼迄は山間を走るのでアップダウンが予想されたが、意外と平坦な
道路で整備されており走り易かった。気仙沼バイパスを越えて市内に入るが周囲に
変化は見られない。3月11日、富士山麓でも結構揺れたが、道路沿いにある年季の
入った建物も立っており、地震で潰れた形跡は見えなかった。気仙沼街道を走り
市内の信号で止まると警察官が誘導していた。その先からである、一階部分の壁に
生々しく水の来た跡を残し、中は空っぽだ。右手に海が見える、以前は建物が影に
なり、震災前には、まず見えるはずのない景色に言葉を失う。コンクリート製の
建物以外は基礎コンを残して更地になっている。大きい船が道路を越えた所で傾いて
いる。ガレキは片付き綺麗になってはいるが、街が消えた衝撃は筆舌に尽くせない。

 陸前高田へ行く途中にある小さい入り江も道路近くまで津波に洗われていた。 
道路右側にある気仙中学校も建物の中はガランドウだ。高田松原に残った「奇跡の松」
の近くまで行きたかったが、道路が閉鎖されており行けず、遠くで写真だけ撮った。
 テレビで見聞きしていたが、その場所は地盤沈下で海に沈み、松原があった事さえ
判らず波が洗い、積んだばかりの波消しブロックも一部壊されている。高田松原第一
球場付近から海を背にして陸を見渡すと、点々と強固な建物だけが残こり、後は
見渡たせる180度が更地になっていた。テレビで見ていると、今ひとつリアリテー
に欠けるが、こうして現場に立つと、自然のパワーの凄さを嫌が上でも体感出来た。
 皆で亡くなられた方々の冥福と、一日でも早い復興を祈り合掌した。  

 復興への援助で寄付も必要だが、こうして直接現地を訪ねお金を使う事も大切だ
お金は天下の回りもの、使えば体を流れる血液の如く毛細血管まで届き、やがては
体を温めてくれる。これから旅行へ行かれる方は、東北の復興の一助にもなり
観光も楽しめる東北旅行を是非、お考えを・・・。


 碁 石 海 岸

 碁石のような黒く扁平な石を主体とする海岸の名勝地、碁石海岸へ到着。
時計も13時を回り「岬」食堂で昼食をとる事にした。先客がいて、ほぼ一杯だ。
注文した海鮮丼が出来上るまで時間が掛かるとみて岬の探索をする。海が荒れて
大きな波が岸壁に当りド~~ン!と反響音が聞こえ、恐怖感を煽るBGMとしては
最高のシュチュエーションで、水面から20メートルの所にある展望台からの眺望は
海無し県の人間には格別だ。

 店へ入ると直ぐに食事が出て来た、1200円とは思えない新鮮さとボリュームに
皆、舌鼓を打った。店内にいた他の客はボランテアだった、2グループで皆、結構
疲れた様子だが、若いせいか食欲は逞しいものがあり、海鮮丼と巨大盛りラーメンを
ペロッ!と平らげていた若者もいた。エネルギーを充填し頑張って欲しいと願った。
 窓の上に被災した時の写真があり、水面の位置が記されていたが、この場所は
下の海面から15メートル以上上にある。この場所まで波が来たとは絶句である。

 食後、奥方達もお腹ごなしに散策を楽しみ14時30分碁石海岸を後にした。

  
 食事処 岬 海鮮丼                碁 石 崎 灯 台


 猊 鼻 渓(げいびけい)

 宿泊先の厳美渓温泉(げんびけい)を目指すが、途中の猊鼻渓(げいびけい)で
休憩をとった。(げんびけい)に(げいびけい)余り離れていないし、どちらも
川の傍で、ちょっとヤヤコシく迷惑なネーミングかも知れない。多分、宿のフロント
や案内係りは、1回の案内で何度も説明する事だろう。

 曇天が、さらに暗くなり、ミゾレの歓迎を受けて、厳美渓の宿「いつくし園」
に到着した。今日1日の出来事を肴に宴会も大いに盛り上がる。長い一日の疲れも
あり、皆、早めに休んだ。
 こちらの宿の特徴は食事が美味しかった事、特筆すべきは、閉めに出してくれた
ご飯が新米でピカピカと輝き、おかず要らずの味、一杯で止められずダイエットは
帰ってからと、二杯も食べてしまった(笑)仲間内に生ものがダメな方がいて
あらかじめメールでその旨を頼んでおいたのもご理解頂き、変わりの料理が出て
いたので○だ。従業員が少なく、今一細かいところまでのサービスはないが料金
から妥当だと思う。

 ------ 21日 ------

 明るくなると、遠くの山には薄っすら雪が載っていた。
8時「いつくし園」を出発し、走行5分で途中の厳美渓にて小休止、記念写真の
撮影会だ、吊り橋に皆を並べて撮った。川の薄い緑色、雨に濡れた岩肌やモミジが
綺麗だった。


 岩手県一関市・いつくし園

  厳 美 渓(げんびけい) 

 9時に予約して置いた「古都平泉ガイドの会」のガイドさんと毛越寺山門前で
会う予定になっていた。車へガイドさんを乗せ、効率的に、また省エネで平泉を
見て回ろうと云う訳である。ガイドさんの名前は高橋さんと言い、学者タイプの
気さくな爺さんと云ったところだ。 
 平泉は6年前に訪ねていたが、その時は、勝手に歩き回っただけだった。
旅の楽しみは人と味、どんな人に出会い、どんな物を食べたかが印象に残り、何を
見たかは二の次と言っても良い。



 毛越寺境内にあった芭蕉の碑「夏草や 兵どもが 夢の跡」以前は、北上川を見下ろす
高館義径堂にあったが管理が行き届かないので、こちらに移設したとか・・毛越寺庭園の
浄土を地上に表現したと伝わる浄土庭園、水をたたえた大泉が池の水面下に、橋柱の礎石が
配置されているから見て・・とか、ガイドツアーならではのマニアックで細かな説明が
楽しく勉強になる。


 開山堂         金堂円隆寺跡      常行堂

           大泉が池  観自在王院跡地    出島の立石・伏石

 約800年前、藤原氏が四代に渡りに治めた古都平泉。毛越寺は浄土式庭園が綺麗に
復元整備されており、礎石跡から伽藍の規模が解かり、みちのくの地で栄えた栄華が
高橋さんの名調子で偲ばれた。


  達 谷 窟(たっこくいわや)毘沙門堂

 801年、征夷大将軍の坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した
記念として建てた毘沙門堂。お堂左にある岸壁には磨崖仏が刻まれている。断崖を
削ったか、自然に空いていたか判らないが、穴にお堂を差し込む様に造られていた。
寺の御由緒書きには「吾妻鏡」にまで、その名前が出て来るとあり歴史の深さに
驚いた。 


  柳 之 御 所 跡 地  

 初代藤原清衡、二代基衡の政庁の跡地で、今の県庁にあたるものだろう。
遺構、遺物を収めた資料館の中にあった30センチ程の木の板(くそべら・トイレット
ペーパー)で致したと聞き、ま~良くあんなものでしたもんだと驚いた。牛車をUターン
出来る広さがある道路や、京からの勅旨に貢物を沢山持たせ難を逃れた話など興味深い。

   
  義経終焉の地  高 館 義 経 堂

 再三にわたる頼朝の脅しや脅迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で
妻子とともに自害したと伝えられており、お堂の中には義経公の木造が安置されている。
弁慶立往生の故事で知られる衣川も遠くに見えた。前回の旅行の際、訪ねる事が出来ず
思いを残したので、今回は行けて良かった。


  か ん ざ ん 亭

 高橋さんに紹介して貰い、白山神社の隣のかんざん亭で自然薯ソバを食べた。


  釋 迦 堂                       白山神社  能 楽 堂

 中尊寺の中にあり歴史は中尊寺より古く奥州藤原氏の初代、清衡公が平泉を開く
遥か昔(850年)に中尊寺を開山した慈覚大師円仁によって、この地に祀られた
とされる。本殿より能楽堂が立派で舞台前の庭には能を鑑賞しやすい様見所が段々に
なっており、真ん中には明治天皇が鑑賞した場所が祀ってあった。橋掛かりもあり
舞台も音が反響するように瓶が埋けてあると云う、神社より能楽堂の方が立派だった。


              金 色 堂

 阿弥陀三尊像を安置し、須弥壇と呼ばれる箱には藤原四代のミイラ化した遺体が
安置されて、中央壇に清衡、左に基衡、右に秀衡の遺体が納められ、左壇には泰衡の
首級も納められているそうだ。木製金箔張りの棺に納められ、堂内に安置されている。
金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原氏の遺体を安置する墓・廟堂だという。

 金色に輝くお堂、螺鈿細工に施された柱を見た古人は、腰を抜かさんばかりに
驚いた事であろう。陽は昇り、やがては沈み夜を迎える。栄えに栄えた藤原氏が
没落し、隆盛を極めた平泉が普段着の街になり夜を迎えた。そして今、世界文化
遺産となり観光客は昨年の三倍だと云う、平泉がまた夜明けを迎えた。  

 「金色に 眩しく光る 金色堂 眠る四代 思い何処に」


 宮 澤 賢 治 記 念 館

 15時、お世話になったガイドの高橋さんと別れ、花巻温泉へと向かった。
花巻は宮澤賢治の故郷だ。日程表には入れてなかったが急遽、賢治記念館へ立ち寄る
事にした。賢治は、詩人、童話作家、鉱石学者、農業指導家、教師、セロ引き
37歳で亡くなったが、子供の頃を引くと20年、20年間で残したものは計り
知れない。自分は、今からの20年で何が残せるだろうか?
 記念館の中には、賢治の好きだった星座が分かり易く見えるよう工夫された
ミニ・プラレタリュームもあり、こちらへ来たら見学をお奨めする施設だ。
賢治の足跡を尋ねて、今一度、ゆっくり訪れてみたくなった。 


    新鉛温泉 愛 燐 館

 花巻市内へ入ったら17時を回った。周囲は暗くなりミゾレが降って来る。
車窓を流れる周囲の民家の灯りが暗くなっても点かず、節電なのか人口が少ないのか
話題になる。宿泊先の鉛温泉「愛燐館」までは10キロ先だ。思った通り山が交互に
重なる谷間にホテルはあった。5時30分到着、積雪は5センチといったところで
道路状態からも、頃良い到着時間だった。

 「愛燐館」は、思った以上に大きいホテルで結構混んでいた。
露天風呂も渓谷沿いに数が沢山あり、雪見風呂を楽しんだ。温まった足で新雪を
踏み締めると「ジュ!」っとばかりに?湯気が上がるが、その湯気も最初の2足だけ
一気に冷えて冷たくなり、また露天に飛び込む。雪降る露天風呂はこんな楽しみも
待っているのだ。

 お楽しみの食事は、HPを見て思っていたものと違い、昔の大型旅館で出していた
刺身、テンプラ、焼き物等といったもので、チョット残念な結果だった。もっと
残念だったのは、リクエストして置いた生ものがダメな方の前にお刺身が並んだ事だ。
係りの女の子が謝り、上司が料理を持って来るのに10分以上掛かり、持って来たが
料理が、合鴨のローストしたもの、見た目が生ふうで、その方は結局食べなかった。
 上司は口上を述べ刺身を持って行ってしまったが、オイオイだ。その刺身、次へ
回すのかい?それとも捨てるの?気が利かないナ!「宜しかったら皆さんで召し
上がって下さい!」だと思うのだが。 チェックアウト時、その上司を見つけ
食べなかった旨話し、土産を一つ頂き傷心?の彼女に渡した事を報告して置きます。

 食事も終わり20時から民謡ショーがあるというので皆で出掛けた。
太サオから流れる津軽三味線や民謡に聞き入り、ダーツも楽しみ花巻の夜は更けた。

 ------ 22日 ------


 
 初老グループの朝は早い、誰かが咳きをしたのが合図か?暗い内に風呂へ出掛ける。
ゆったりと時間が流れTVを見ながら世間話などしていると、ドアをノックし
渡辺さんの奥様が入って来て、今日の着るものやらバックの整理などをして帰って行く
今度は鶴田さんの奥様登場だ。皆さん同様の動きをして部屋に帰って行く。35年以上
夫婦をしているベテランご夫妻で、見ていて、ほのぼのとした空気感が伝わり心地良い。

 午前8時、ホテルを後に遠野を目指した。 

 国道283号線を東に進むとナビは信号で左折を示すので従って進んだ。
県道160号線だ、山を登り出すと昨日の雪が残っている、対向車も後続車も来ない。
何か変だ?カーナビは最短距離でルートを探るが、標高が高い所に雪が道路に
着いているか?いないか?は関係ないのだ。地元の方は安全な方を走るので雪が無い
方を選ぶ、ちょっと距離が長くても雪が無いほうが安全に走れる。160号線は
舗装されているので回り道としては問題はないが・・やられた!カーナビトリックだ。
以前、カーナビを使い四国で山中を走せられた経験があった。
 何も無かったから良かったが、カーナビを全面的に信用してはいけない教訓を残した。

 「遠野ふるさと村」で休憩をとった。売店で地図を貰い検証したが???遠野だけに
山中でカッパに騙された感のある遠野入りだ。 

 
  遠野  か た り べ 館

 10時には遠野市内に入った。
「とおの昔話村」「遠野城下町資料館」を見ながら時間調整して、かたりべ館へ入館する。
 遠野は民話のふるさと、かたりべの菊池さんがやわらかな方言で語られてゆく昔話は
心をホッとさせてくれた、当日は馬に恋した娘の話とカッパ淵の話だった。


  常堅寺 か っ ぱ 淵

 次にカッパ淵へ向かった。
常堅寺の山門から入り左奥にカッパ淵があったが、川幅も狭く水量も少なく、エツ!ここ
ってな感じだ。竹ざおの先に付けたキュウリが川面に揺れ面白かった。橋の欄干の所に
カッパ淵を映すライブカメラまで設置してあり、本気の取り組みがユニークでエジャナイカ!
 境内に狛犬の頭がへこんだ珍しいカッパの狛犬がお座りしていた。


  北 上 駅

 12時、慌しく遠野を後にして283号線を北上駅を目指した。
13時にはトヨタレンタに着き、店を確認してガソリンスタンドを探すが周辺にない。
渡された書類の中からスタンドの電話番号を入力して、最後までナビのお世話になった。
 駅舎のレストランで遅い昼食をとり、14時29分発「やまびこ60」に、間違わずに
全員で乗り込んだ。 

     
 光のパイプオルガン       

 詩・宮澤賢治「告白」から 
「・・・・みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
 おまえはひとりであの石原の草を刈る
 そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
 多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
 もしも楽器がなかったら
 いいかおまえはおれの弟子なのだ
 ちからのかぎり
 そらいっぱいの
 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」

 新幹線の車窓から、雲間から光が地上に降り注ぐレンブラント光線が見えた。
またの名を天使の階段・梯子とも云うが・・・昨日行った賢治の記念館で読んだ詩の中に
「光でできたパイプオルガン」の記述があった。自然が織り成す車窓のドラマを見ながら
まるで、賢治の見送りを受けているような感覚になった。