2014年11月17日月曜日

22会九州旅行!

22会九州旅行!
 
     日 程

11月3日    5:00  遠山宅 集合出発

         7:00  羽田空港

               JAL1783便   東京(羽田) 7:40発 → 大分 9:20着

        12:00  湯布院                
        
        13:00  九州”夢”大吊橋 鍋ケ滝 城下大イチョウ
 
        17:00  黒川温泉 新明館   0967-44-0916  

   4日    9:00  出発 

        10:00  阿蘇山 大観望 草千里ケ浜

        11:30  熊本城               

        16:50 ~17:30 フェリー    0957-63-8008

        18:00  雲仙温泉 宮崎旅館  0957-73-3331  


11月5日   9:00  出発  地獄見学
 
        11:00  長崎  グラバー園 平和公園
     
                 JAL1854便   長崎 20:10発 → 東京(羽田) 21:45着

        24:00  吉田着      


 = 11月3日 =

 平成22年に、松山地区自治会を1年間運営した仲間夫婦8名で出掛けた。
渋滞もなく1時間40分程で羽田空港に到着、皆を出発口に下ろしP1、4Fに車を止めた。
 空港のロビーは日曜日と云う事もあり混雑している。早めにバックを機内預けに託し、
セキュりテイーチェックを受けて搭乗口で時間を潰す。いつ来ても賑わう空港内は華やかで
素敵空間、空港だけに人々の思いが空を翔る気がして大好きである。

 1時間40分はアッ!と云う間のフライトだった。ただ残念だったのは、楽しみにしていた
富士山が見えなかった事だ。河口湖は右下に見えている、シートベルトサインが出ているが
無視して座席を立ち、空いている座席の前を左へ移動すると即アテンダントに注意をされた。
取り合えず「すいません!」と謝りつつ窓下を覗いたが御山は見えない。その時、テレビ
モニターに、見覚えある円から放射状に白い雪の筋が見える。ドンピシャで御山の真上を飛んで
いたのだ、残念! 飛行中、眼下に見える雲が彩雲となり虹色に染まって綺麗だった。 

   羽田から大分空港へ


 たいした揺れもなく大分空港に着陸、荷物の受け渡し場所であるターンテーブルへ向かうと
アナウンスが流れた。大分空港では受け渡しターンテーブルを回転寿司に見立て寿司が回って
いるとの事だった。本当に客の荷物に混ざって寿司が回っており、楽しい演出だった。こうした
何気ないサービスの積み重ねが旅を上質なものへと昇華させてくれる。

  湯布院・金鱗湖



 仲間がターンテーブルから出て来る荷物を待っている間に予約したレンタカーを取りに行く。
ハイエースの10人乗りを注文、勿論、カーナビは出来たら新型でのリクエストもしっかり
聞いて貰え良い車だ。長崎空港まで2泊3日、リース料は78500円でクレジットで支払った。
 空港の仲間をピックアップ、日出バイパスから大分自動車道、そして湯布院へと向かった。

 湯布院入り口の道の駅で休憩、内緒で鮎のカラアゲを食すが油の味が強く内臓もないので
あまり美味くなかった、やっぱり鮎は塩焼きに限るな。
 日曜日だからだろうが、湯布院の街は人で溢れていた。人が多過ぎで、狭い路地をハイエースで
乗り込んで行くには気を使った。言語も色々飛び交い異国の観光客が半分に近い状況に、昔訪ねた
静かな湯布院のイメージは吹き飛んでしまった。 

  食事処 べべんこ


 県道11号線を南下しながら朝日台展望台に立ち寄り”べべんこ”で昼食を摂る。
高台にあるので視界が開け気持ち良い場所だ。

  九州夢大吊橋


 九重”夢”大吊橋は全長390メートル、高さ173メートルの歩行者専用吊橋で人気が
あるのだろう、駐車場へ向かう道路は100メートル手前から渋滞していた。去年、来ていたし
眠かったので皆と別行動、車中で寝ていた。

  鍋ケ滝


 前回の旅行で立ち寄りたかった場所だがカーナビにも掲載してない滝で、結局、寄る事が
出来なかった。今回は立ち寄る事が出来て念願が叶ったかたちだ。滝裏をグルッ!と周れる滝は
日本広しと云えども中々お目に掛かれないし、そのスケールも想像以上に大きく、もっと
アピールしても良いと思う。九州の懐には観光資源が、まだまだ眠っている、そんな気がした。



  城下大イチョウ


 鍋ケ滝の近くに”城下大イチョウ”がナビに載っていた。時間もまだあるし、近くにあるから
訪ねて見ると、確かに、その巨大さに驚いた。樹齢1000年はホント!かも知れない。

  黒川温泉・新明館




 黒川温泉”新明館”へ泊まった。
黒川沿いの山間地に静かに佇む温泉地で、温泉がなければ只の過疎地だ。13年前に来たが
その時と比べお客様も多い感じがするし、何より、旅館で働いている従業員が若いのが良い。
 若い子はいるだけで活気があるし、元気を貰える気がする。旅館は繁盛しているから雇用が
安定し若い子を使える。一方、落ち目の温泉地で働く従業員は初老の叔父さん、叔母さんだ。
決して若いだけが良いのではないが、叔父さん・叔母さんだけの旅館より良い事は明白だ。

 囲炉裏を囲んで夕飯を摂ったが、現代人に、こんなシチエーションは非日常的な空間となり
川のせせらぎ、温泉の湯煙は、忘れられない記憶として刷り込まれるのだろう。

 = 4日 =

  大観望


 9時に宿を発った。まずは阿蘇の外輪山・大観望に立つと太古は火山で、今はカルデラの平野に
何万人もの人が居住しているのが奇跡に思えて来る。この平野全体が噴火し火柱が昇ったなんて・・・
凄過ぎて想像を絶する。

  阿蘇神社


 次に、阿蘇神社を訪ねた。
阿蘇神社は、全国的にもめずらしい横参道があり、この参道に向かって立派な二層の楼門が建っている。
阿蘇開拓の祖神と伝えられる健磐龍命をはじめとして十二神をまつる由緒ある神社で火振り祭りが有名だ。

  草千里


 内輪山にある景勝地で噴火口が直ぐ近くに見える場所だ。馬を借りて乗馬も出来るしヘリで
上空から観覧する事も出来る。ロープウエーは御嶽山噴火の影響で運休中だった。噴火口近くに
ある人工物、コンクリートのシェルター入り口が2ツ見えたのが、先日の御岳山噴火と重なり
時折、煙の色を変える噴煙が印象に残った。御山に煙は見えないが同じ火山、出来るだけ長い間
大人しくしていて貰いたいものだ。

  熊本城



 私的には今回の旅のメイン”熊本城”丁度、熊本城戦国おもてなし隊の演舞が始まるところだった。
華やかに舞い、お客様を楽しませるトークは楽しく、旅の旅情を盛り上げてくれる。会話の中で
帽子の方どちらの国からいらしたか?と聞かれ「甲斐の国でござ~る!」と返事を返した。こんな
些細な何気ない事が、時が経っても想い出として残るのだ。
 威風堂々の熊本城は想像以上に立派だった。迷路のような巨大な石垣の通路から城を見上げると
いたる所に銃窓があり、攻めるのは容易ではないのが判る。さすがは加藤清正公の創った城だ。
1960年(昭和35年)熊本城天守閣が復元落成され54年の時が経つが、天守閣へ昇るコンクリートの
階段のステップが凹面状にへこんでいるのを見て、その人気の高さが分かった。やっぱり清正公
(セイショコ様)は凄い仕事をしたのだ。 @清正公(きよまさこう)は地元では尊敬の念を込めて
(せいしょこ様)と呼ばれているそうだ。やっぱり山梨でもそうだ、武田信玄を信玄と呼び捨てには
せず(しんげんこう)と呼んでいる。



  熊本港 ~ 島原港 フェリー 



 熊本城から港へ向かう、熊本港から島原港までフェリーに乗船する為だ。
16時50分発の船に乗った。波静かな島原湾を高速フェリーは滑るように進むと先には
険しく尖がる普賢岳から噴煙が見えた。2007年6月6日、溶岩ドームが崩落し死者・
行方不明者43人を出したのは、まだ記憶に新しいところだ。その外木場地区を通り
18時、雲仙宮崎旅館にチェックインした。

  雲仙温泉・宮崎旅館



 = 5日 =

  雲仙温泉・地獄巡り


 宮崎旅館は地獄と呼ばれる温泉噴気地帯にあり、池の中に煙突を何本も設置し、そこから
噴気が出ていたり、泥池には噴気が造るのだろうクレーターが幾つも出来ていたのが珍しい。
 朝、皆で歩道を散歩したが、この雲仙地獄は悲しい歴史がある。その昔、キリシタン殉教の
舞台となったところで、捕らえたキリシタンを、この地獄を使って拷問したり、改宗を迫ったり
したのだ。今では、その殉教の地を宗教も肌色も違う人々が行き交う平和な時代だが、時が
流れても変わらないのは、硫化水素の独特の匂いだけではないだろうか。自然に勝るものなし。 

  仁田峠からの普賢岳


 9時30分、旅館を後にして仁田峠へ向かった。
峠までは細い林道だが一方通行になっており対向車の心配が無いので運転が楽だ。住んでいる
山梨県にも林道が沢山あるが風向明媚な林道は一方通行にしたら観光客に喜んで貰えると思う
のだが如何だろうか?観光資源は、まだまだ眠っている。閑話休題、峠の手前にある展望台へ
立ち寄る。直ぐ目前に普賢岳が見える、右に視線を移すと島原湾が朝陽を反射し眩しかった。 

  島原城


 その後、誰も行った事がないと云うので島原城へ向かう事にする。こんな事が出来るのが
車を使った自由旅行の良い所だ。島原城にもお持て成し隊がいて写真を撮って貰った。入場口に
鎧があり装着して写真が撮れるようになっていたのが嬉しいサービスだ。中をユックリ見学
したので時間が無くなり、鎧を付けられなかったのが心残りだ。

 島原には悲しい歴史がある、寛政4年4月1日(1792年、新暦5月21日)、噴火が
続いていた雲仙普賢岳で、眉山の山体が崩壊。その土砂が島原海に入って津波が発生
対岸の肥後に大きな被害をもたらす(島原大変肥後迷惑)。雲仙普賢岳の火山活動により
島原地方(現在の島原市)で有感地震が続き、その後、普賢岳から噴煙が上がり、溶岩流や
火山ガスの噴出も見られるようになった。活動が収まりかけたかに見えた4月1日(新暦
5月21日)、大地震によって城下町の背後の眉山が大規模に崩壊、大量の土砂が島原の街を
通って有明海へ向かって流れ落ちた。これを「島原大変」と言う。 この時の死者は約5千人
とされる。有明海に達した土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に
襲いかかる。これを「肥後迷惑」という。そして、肥後の海岸からの返し波が島原をも襲った。
津波による死者は約1万人といわれています。「島原大変肥後迷惑」による死者は、1万
5千人にも及び、有史以来日本最大の火山災害となった。HPから 

  浦上天主堂~グラバー園

 
 島原を後にして251号線を北上、長崎へと向かった。
長崎市内へ入り、遅い昼食を周る寿司屋で頂いた。海無し県から遊びに来ると、やっぱり
ご馳走は新鮮な魚介類になってしまう。
 中心へ近づくと結構車が混雑しており、ハイエースが止まれる駐車場を探すのに骨が折れる。
グラバー園下駐車場へ車を止めて散策を楽しんだ。
 
  平和記念公園

 
 グラバー園から平和記念公園へ周った。
公園には小中高の学生達が引率の先生に連れられ見学に来ており結構混んでいた。
エスカレーターを上がった所にある”平和の泉”の噴水に虹が見えて綺麗だった。

 「平和の泉」は、原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫び
ながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、世界恒久平和と核兵器
廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された円形の泉で、平和公園の一角、平和祈念像の前方に
あります。直径18メートルで昭和44年に完成しました。平和の鳩と鶴の羽根を象徴した噴水が舞い
正面には、被爆し、水を求めてさまよった少女の手記「のどが乾いてたまりませんでした 水には
あぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いた
まま飲みました」が刻まれています。ながさきNETのHPから

 「平和祈念像」は長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の
平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を
指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の
冥福を祈る”という想いを込めました。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この
像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。HPから

 今回の旅行は阿蘇山・雲仙・島原と霧島火山帯の研修旅行?になってしまった感じがするが、
富士火山帯に住む我々にとって火山は人事ではない。近年、富士山が休火山から活火山に進化し?
変わった。約300年前に宝永山が噴火し、火山灰を関東地方に降らせ大変な被害が出た。以後は
平静を保っているが、いずれは・・・。

 長崎では一発の原爆で15万人、広島では16万6千人が太平洋戦争末期に亡くなった。自然
災害も怖いが人間の集団的狂気が一番怖い。戦後70年間平和な時が続いているが、これからも
出来るだけ長く平和が続く事を願ってやまない。