2008年10月25日土曜日

平成20年度(22回)商工観光サービス部会視察研修旅行

  平成20年10月21~22日

     ----- 21日 -----




 10月21日(火)・8時、商工観光サービス部会会員15名を乗せたバスは富士吉田を出発した。河口湖ICから中央高速に乗り、圏央道、関越自動車道を通り、東松山ICを目指す、 一部、一般道路を走るが、予定通り11時には 足利学校 へ到着した。 500年以上前に出来、大学の役割を持った学校だ。日本中から秀才が集まり勉強し体得して郷里へ帰り、学んだものを教える。こうして国の礎を築いて来たのが理解出来た。足利市と富士吉田市はご縁が深い、戦前・戦後を通し、富士吉田市織物の
技術発展は足利市の方々に技術指導を受けた賜物で、足利市には恩がある。昔、機屋の長男として生まれ、機を織った事のある身としては、足利市を訪問出来て良かった。




 昼食後、 富岡製糸場 へ向かった。
バスを離れた駐車場に置き300メートル程歩くと、右手の塀の向こうに巨大な建物が目に入って来る、富岡製糸場だ。
 ボランテアガイドさんの、熱の伝わる説明を受けながら広い敷地を歩く。明治五年と書かれ礎石、歴史が圧し掛かる様に、136年前に建築された工場が圧倒する。嫌が上にも明治人の気骨、迫力を感じた。富国強兵、列強国に追い付け、追い越せ、その為には、すべてを犠牲にして頑張れ・・・と、「ああ野麦峠」の辛い女工の話を思い出したが、ここでは違っていた。今と大体同じ8時間労働290日就業し、休日もしっかりあったそうだ。監督官のフランス人がワインを飲んでいるのを見て、血を飲んでいるといったデマが広がり、募集しても女工が集まらず各府県に人数を割り当て募集、数百人の士族の娘などが集められ働いていた。工場施設の脇には病院まで作られ、フランス人医師を常駐させ手術まで出来る環境が整えられていたし、明治18年には夜間学校まで設けられ、「ああ野麦峠」の女工達とは覚醒の如く懸け離れており、随分恵まれた環境なのだと判った。富岡製糸場は明治政府が国策で創ったモデル工場といったところだろうか・・・そして、ここで研修し学んだ女工は全国に散り、各地に富岡を真似た工場で講師・先生として、技術指導を行った。 



 見学の後、2号館(女工館)にて、富岡市役所世界遺産推進課長、商業観光課長の皆さんと、意見交換を行う。
 平成15年までは見学者が、1万人に満たない数が、平成17年(2005年)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)7月5日には明治8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財に指定された。なお、全ての建造物は平成17年(2005年)9月30日付けで地元富岡市に寄贈され、現在は市が管理(富岡製糸場課)を行っている。平成19年(2007年)1月23日には文化審議会文化財分科会で「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定リストに加えられた途端、年間26万人もの観光客が訪れ、戸惑ったに違いないが、平成20年も昨年度対比と同じ推移で増加している。市内へ直接30万人近くの観光客が訪れるのは
羨ましく思う。

 富岡製糸場が世界遺産暫定リスト入りし、脚光を浴び観光客が増える中で市民の意識が遅れているとのお話があったが、これは時間が解決する事で問題意識を持ち、市民と行政が一緒になって改善して行けば解決出来る事だろう。

       「 伊香保温泉 」



 18時、伊香保温泉「ホテル福一」へ到着。肌に優しい温泉を楽しみ、宴会後、自然発生的にカラオケバーで2次会となった。23時解散して部屋に戻るが、飲みつつ語る会となり、2時まで頑張ったが睡魔に負け席を外し布団へ潜り込んだ。朝、聞いた話に寄ると3時まで語りあったそうである。何度か参加した中で、今回の旅行が一番打解ける事が出来、思い出に残る楽しい
伊香保の夜だった。 習性で、寝ていられない。6時に起床して散策した。伊香保温泉は石段の街、暮らすのは大変だと想うが、石段と両脇にある建物がノスタルジックな雰囲気を醸し、店先にある祭りの写真や、昔の風俗を写した写真が飾られ、石段には菊の鉢が所々に置かれたり、案内板なども工夫に富んでいて旅人を持て成そうとする配慮が、あちこちで感じられ、とても気持ち良い街だ。2階の窓から、石段を下る小学生に手を振るお母さんが印象的だった。

     ----- 22日 -----





 宿を9時に出発し榛名山ロープウエーへ向かった。榛名山、別名「春名富士」と呼ばれるだけあり、途中から見える榛名山は、しっかりと二等辺、御山のシルエットが逆光に浮かび上がっている。榛名湖周辺全体が霞に包まれ余り透明感は無かったが、その中を3分でロープウエーは頂上まで昇った。 徒歩で5分、神社まで歩く。頂上神社鳥居に「冨士山神社」と書かれた扁額が掛かっており、こちらの神社のご祭神は、我等が”此花咲耶姫様”であり、嬉しくなった。隣にいた、富士山を仕事場にしている'ごうりきの近藤君がボソッと言う「リタイヤしたら、全国にある富士山を回ってみたいな・・」と、それも面白いかも知れないと思った。

   「 鉄道博物館 」





 次に鉄道博物館へ行った。巨大な伽藍、すべてが本物だ。丁度15時、蒸気機関車の方向転換ショーが行われており180度向きを変えながら汽笛を鳴らす「ブオー!ブオー!」腹まで響く音、なぜか郷愁を誘う音だ。見学時間1時間は勿体無い、半日位掛け、男の孫でもいたら一緒に見たいものだ。
 鉄道の歴史は近代日本の歴史。1860年、今から、たった150年前の事である。黒船が到来し、長い眠りから目覚め、明治政府は殖産興業政策・富国強兵を計り富岡製糸場をモデルに絹糸を輸出し外貨を稼いだ。その間、諸国に渡り勉強し、模倣し列強に追い付け、追い越せと努力して来た明治人。 今、日本は戦後一番の難局に向かっているが、明治人と同じDNAを持つ我々に出来ない事は無い。150年の鉄道の歴史を観て思った。

   「 山本容子展 」 
  

 2Fの壁にステンドグラスが填め込んであった。「山本容子展・過ぎ行くもの」と題しての展覧会だ、浅田次郎・嵐山光三郎・中沢新一ら10名のエッセイをモチーフに1枚ずつ創作したもので、赤の炎、水色の水で蒸気機関車を現し、客車内の色んな人生模様を10枚のステンドグラスに映し出した逸品。 観ていて心踊り、一緒に仲間に加わり旅がしたくなる、そんな作品だった。 帰路は、過日事故のあった首都高トンネルを初めて通り帰って来たが、停滞も無く7時前には着いた、今回もまた実り多き研修旅行であった。