2015年4月13日月曜日

商工会議所観光サービス部会研修旅行

商工会議所観光サービス部会研修旅行 平成27年9月17・18日 

 7時30分、雨の中バスは会議所を出発した、目的地は伊東市池である。
前々回の部会で研修旅行先の話になり、池地区を提案したところ、良いだろうと決まったのだ。
 準備万端、先月の部会で富士山ミュージアムの学芸員篠原氏を招聘し、新倉掘抜の勉強をしたが
市内在住の方で掘抜の事を知らない方がいらして、逆に驚き、また深く知って貰うべきだと意を強くした。

     新倉堀抜
 その昔、河口湖は川の無い、山に囲まれた自然の溜池で、長雨が降れば湖が増水し、湖畔にあった
民家や田畑は水没し難儀していた。一方、富士吉田の新倉地区は傾斜した土地で水が無く困っていた。
 1690年、時の領主・秋元公がその事を知り工事着手したが岩盤に立ち向かう難工事で通水せずに
終わった。1847年、大雨が降り地面が陥没、忘れ去られていた掘抜が露出し、住民が中心となり
工事を再開し完成させるが、落盤事故と湖の渇水で水面が低下し1年余りで不通となる。

 1862年、新倉村医師永島元長を中心に近郷近在まで幅広く無尽講で資金を集め、1865年完成
させた。この掘抜の長さは約4キロ、掛かった工事費用は約7万両、工事をした人は約11万人という
大工事で、最初の工事から170年以上経って、ようやく掘抜が完成した訳です。この工事により
新倉村に念願の田んぼが出来、米作りが出来るようになった。新田の広さは11ヘクタールで、およそ
東京ドーム2,3倍の広さになる。

      池の掘抜

 池のたんぼ 川沿いのマンジュシャゲ 随道入口水門 平安都城の碑   二代目水門   川尻

 当時の豆州池村も堰き止め湖になっていた池の水を排水して田んぼを作る事が念願の夢だった。
豆州から甲州の一部まで治めていた江川代官に相談したところ新倉掘抜の話を聞き、江戸末期
名主・高橋伝左衛門一行が新倉を訪ね、工事を依頼したと推測される。そして明治2年工事着手
約20名の新倉村・船津村から来た職人が随道工事を進め、明治3年に3000両を掛け約1キロの
随道が完成した。

 その完成を祝い、末永く偉業を後世に伝えようと「平安都城の碑」を随道入り口近くに建立した。
碑文の意味は「平和な京都のように、池村も随道完成という快挙によって、永遠に存続するに
違いない。」という、大変な喜びを表現していた。

 先祖の偉業を知り後世に伝えて行くのは、今の時代を生きるものの努めだ。新倉掘抜だけでなく
遠く池の地まで足を伸ばし随道工事を完成させた我々の先祖を大いに誇りに思う。今回の旅は
その足跡をたどる旅でもあった。

 バスが生涯学習センター池会館へ近づくと区長さん他5人が待っていてくれ、バスに乗り込み
道案内。生憎の雨の中ではあるが、随道の水門、平安都城の碑を見学の後、センター内で加藤清志
先生による池地区の変革のお話を伺った。安政年間に掘割を掘って排水路を作ろうと試みたが、
資金不足と技術の未熟で失敗、新倉村を訪ねる事になる。近年、河口湖高校の先生だった中村章彦
先生が明治2~3年の池随道工事の出勤簿を庄兵衛さんの子孫、羽田勝さんが所有しているのを発見し
それにより新倉村、船津村の住人の力により随道が出来た証明となった。

 平成13年9月、羽田家ゆかりの方々と中村先生が池地区を訪れる。平成14年10月、新倉
掘抜水神祭に招待され、有志13名が新倉・船津へ来訪、交流は今も続いている。「平安都城興
天地同長久」の碑文にあるように、これからも子々孫々末長く久しく続いてくれる事を願わずには
いられない。その事で、先祖の水との戦いの歴史を知る事になり、郷土が誇りとなるのだから。   

  区長さんらに送られバスは池会館を後にした。


 上記、池地区ダイジェスト版は平成28年3月、池歴史研究会 史の会が纏め、それを
富士吉田商工会議所へ送ってくれた。共に先祖の偉業を誇りに思い、後世に伝えて
行きたいものだ。


          
      食事処”萬望亭”           河津町 観光カリスマ 櫻井泰次氏 高話  白浜海岸  
   
 昼食後、河津桜交流観光会館に於いて観光カリスマ櫻井泰次氏のお話を伺った。氏は4年16期
河津町町長として活躍された方で、政治家は目標を持ちメデイアの力を上手に使う事が出来る方が
望ましく「知恵を使って国から力を引き出し、少ない予算で、より多くの人を集め地域を活性化する」
そんな言葉が印象に残った。まさに有言実行、河津桜の集客が証明している。


 観音温泉

 宿泊先は下田市蓮台寺から沢を2キロ程上ったところにある観音温泉だった。伊豆は昔から
好きで毎年来ていたが観音温泉は、まったく知らなかった。ガイドの原さんからお湯が良いと聞いたが
気にもしていなかった。ところがである、宿に着いてチョット離れた場所にある”観音プリンシプル”と
呼ばれる風呂に入ると衝撃を受けた。それは秋田県の玉川温泉と同じ程の衝撃だった。湯質はまったく
異なり、肌に纏わり付いて来るそんな感じだろうか、ヌメリのある湯で、今まで体験した事のない
湯質に驚いた。


 河津ループ橋    浄漣の滝    わさびアイス



   韮山反射炉

 翌日、韮山の反射炉へ立ち寄る。江戸時代末期から明治時代初期、日本の近代化の基礎を作った場所だ。
川の水を引いて動力を生み出し、砲身を回転させ中を削り大砲を造る、昔の人々の叡智は凄い。



 午後1時30分過ぎ、沼津港市場にある”丸天”で昼食を取った。相変わらず混んでおり
全員で入れないかと思ったが、さすがに昼食時間を過ぎ、奥の座敷に座れた。お姉さんの
お奨め、鯵の寿司と鯛皮の湯引き、カサゴの唐揚げを頂いた。ん~ん!旨い!
 食後、近くにある深海水族館を見学、冷凍されたシーラカンスを見た。

 今回の研修旅行は、一部私の提案が受け入れられ実現した。前回の76会の旅行で伊東へ行き
高橋さんとの偶然の出会いがあり、先祖に導かれているような気持ちになった。部会の皆さんの
胸にどのように映ったか判らぬが、先祖の偉業を後世に伝えて行く事は、今を生きるものの務めだ
新倉掘抜、池の随道、これからも機会を作って伝えて行きたい。