2015年10月14日水曜日

富士吉田市民生児童委員研修旅行

富士吉田市民生児童委員研修旅行 平成27年10月8・9日 

 7時0分、2台に分乗した55名の民生委員を乗せ、快晴の天気と御山に送られバスは
富士吉田を出発した。

 狭山P

 流山市

 流山市文化会館・研修会

 10時30分の定刻より20分程早く着き、バスは市内を一回りして時間を潰し、会館の駐車場へ
入った。文化会館の建物は対震構造が直ぐに分かり、無骨な梁が印象的な建物だった。いよいよ流山市
民生委員児童委員協議会と交流が始まった。都心へ電車で20分。なのに、ここまで豊かな自然が残る
「都心から一番近い森のまち」「子育てするなら流山市」そして強烈なコピーは「母になるなら流山市」
そんな、キャッチフレーズが印象的で、その緑豊かな住環境を維持しながら、“住みたい・住み続けたい
街”づくりを進める流山市は、市民意識がとても高い街のようだ。

 研修の始まりは民生・児童委員信条、児童憲章前文の唱和から始まった。民生委員の歌「花咲く郷土」を
斉唱したのには驚いた、不覚にも民生委員の歌があるとは知らなかった。流山市会長大野氏が挨拶し、吉田の
高山会長が続いた。大野氏から流山の活動報告をお聞きし、高山会長が富士吉田の報告をして質疑応答を行った。
 その中で、市内を8地区に分けて地図化し、その中に指定避難場所、災害時非常食、「AED」設置場所
公衆電話、高齢者世帯、障害者、単親世帯等、色分けし判り易くしてあるのが良いと思った。ただ、個人情報
保護法との関連があるから二の足を踏む事になるが、災害の時一番頼りになるのは近所に住む隣人の共助の
精神、まずは地図化して知って貰わなくては始まらない、その為の努力が必要だ。
 
 会長の話にもあったが、流山民生委員の方々10人以上におもてなし頂き恐縮した。また、各テーブルに
置かれたお茶とお菓子、お菓子は紙の上に乗せて、部屋の隅にはお花まで飾るおもてなし、細かい心遣いに
痛み入った。こういった配慮の出来る民生委員を持つ流山市民は幸せだと思う、我々も、良きところを真似
しないといけない。
 あっと言う間の1時間半、記念撮影を終え、皆さんに見送られて流山市を後にした。多謝
 

 シャトーカミヤ・昼食

 昼食でシャトーカミヤを訪ねた。残念な事にシャトーカミヤの国指定重要文化財(本館)と神谷傳兵衛
記念館は東日本大震災の影響で休業しており見る事は出来なかったが、食後、オエノンミュージアムに
立ち寄り見学したが、展示品に昔、良く通ったカクテルバーに置いてあった電気ブランがあり、ここで
作られたものである事を知り、嬉しかった。

 中郷P



 五浦観光ホテル

 五浦は明治39年、岡倉天心が橋本雅那、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らの、愛弟子を
呼び寄せて日本美術院を移した事で知られており、以来、五浦は入り組んだ海岸と太平洋から打ち寄せる
波が創作意欲をかき立てる風光明媚な土地柄のせいか才人が集まり近代美術のメッカとなった。

 ホテルは眼下に六角堂のある入り江を見下ろす断崖絶壁の上にあり、通り過ぎた台風23号のうねりが
岩場に打ち付ける音が「ドドドツ!」と一晩中響いていた。18時30分から始まった宴会がカラオケ入りに
舞踊も付いて2時間程続き、オオトリは持ち込んだ「吉田音頭」のCDを掛け、全員で宴会場を輪になり
踊った。さすが民生委員纏まりが良い、男性陣も釣られて輪に加わり大盛り上がりで五浦の夜は更けた。



 
                       茨城沖に昇る朝陽                  朝食

 海岸端に来ている、水平線に昇る朝陽を撮らなくては・・・フロントで陽の出の時間をチェックして
携帯にセットした。どこに行っても 陽の出love♪ もう習性・クセになっている。5時20分屋上へ
上がると先客が2人いた。海は随分と静かになり水平線の上がオレンジ色になっている。空には月と
金星がランデブーして浮かんでいる、良いロケーションだ。
 水平線と松葉の配置を決めながら陽の出を待つと、直ぐに赤い太陽が浮かんで来る。その波の波頭に
太陽が点々と輝き綺麗だ、やっぱり早起きは三文の得である。


 袋田の滝

 次に袋田の滝を訪ねた。水や滝好きの自分としては、予ねてから来てみたかった場所だが、今まで
縁がなかった。トンネルを抜け人垣の向こう側に見えた滝は想像以上の迫力と大きさで、やはり
百聞は一見に如かず、自分の目で見、触れ、嗅いだり、聞いてみないといけない。4Kテレビが出ても
本物を超える事はないだろう。
 


 西山荘・昼食会場

 元禄3年(1690年)水戸藩2代藩主徳川光圀公は家督を3代綱條公に譲り、同4年(1691)5月に栄華を極める
江戸城を後に、光圀公自らが始められた「大日本史編纂事業」に生涯を捧げるべく、完成間もない西山荘に
移り棲まれました。同13年(1700年)12月6日、西山荘の寝室で亡くなられるまでの10年間、編纂の傍ら
多くの領民と親交を重ねられ、多くの人々から「黄門さま」と慕われました。HPから

 ガイドさんをお願いし、お話を聞きながら散策した。3方を山で囲んだ自然の要害、その中で
高い敷居を持たない質素な庵に住み五反の田圃を作り、領民と膝を交えるように話をする、そんな所から
諸国漫遊話がホントのようになったのだろうと想像が出来た。所々にモミジの古木もあり沢の水を
利用した池もある立地、秋には良き紅葉を見る事が出来るだろう。こんな場所に別荘が欲しい、なんて
思った。



  西山荘

 那珂湊市場

 みんなのリクエストで那珂湊市場へ寄り、最終お買い物タイム。時間が迫ると発砲スチロールの箱が
バスのボデーに幾つも飲み込まれた、皆、満足の笑顔である。

 高速・常磐道からの夕陽   

 1泊2日の研修旅行はあっと云う間に終了した。
流山の皆さんのように肌理細やかな配慮が出来るだろうか?中々難しい問題が山積しているが 
皆と力を合わせ一つ一つ頑張って行くしかないだろう。
 帰路、袋田の滝駐車場で散策に来た流山市民生委員のグループと偶然再会し、またまた土産を
頂いた。高山会長が小声で洩らしたのを聞いた「流山さんとは長い付き合いになりそうだ・・・」
 良きご縁を頂き、良き研修旅行が出来たと思った。